東日本大震災の後、家族の絆という言葉を耳にすることがよくありますが、「絆」という言葉は平安時代には「ほだし」と読んでおり、「ほだし」とは牛や馬が勝手に動けないようにするための縄のことで、自由を拘束するというマイナスの意味として使われていました。
日本は戦後、欧米の個人主義の影響を受けて古来より大切にしていた「家」の束縛から逃れ、「個人」を大切にしようと考える人達が増えていきます。
また、失業保険や国民健康保険など、個人を支えるための社会システムが発達したおかげで、家族が世話をやくのが当然であった失業や福祉は、国や会社が補うようになり、家族の絆がプラスの意味で語られるようになったのは、日本人が絆をお金に換えることで家族の役割を必要としなくなったからなのでしょう。
今の日本の家族はアポを取り合わなければ全員集まらず、クリスマスなどのイベントに集まることでようやく繋がりを感じあう傾向があります。
個人主義の歴史が長くても利己主義にならないよう工夫してきた欧米では、老人ホームに入った両親を子供が訪ねる回数は日本より多いそうで、日本が欧米を表面的に真似をしたことで作り上げたのは、自立ではなく孤立したバラバラの家族像なのです。
実際に「家族が何を考えているのか知っているか」という質問に対してすぐに答えられる日本人はほとんどおらず、今の日本人にとって家族とは一番近くて遠い存在になっているのかもしれません。普段の日常が切り取られて、楽しい時だけ盛り上がる姿を果たして正しい家族と呼べるのでしょうか。
「ご先祖様が見ているから」というようなことが親から子供へ伝えられていた社会では、子供は自然と自分を律することができ、別に誰に何を言われなくても、してはいけないことが社会全体でわかっていたため、日本の社会は安全に機能していました。
家族に頼らずとも多くのことがお金によって自分で解決できる中、例えば就職で地方から都心へ子供が家をでるときに「困ったらいつでも帰っておいで」という親の一言は、属に言う甘やかしではなく、世界で唯一の存在である家族だからこそ、言うことができる言葉なのでしょう。
家族に迷惑かけず、自立した精神を持ちたいと思う若者が増えていますが、自立して頑張らなければならない環境は家の外にはいくらでもあります。
いつまでも、自立できない場所が一つぐらいあっても、恐らく、罰なんかは当たらないんじゃないでしょうか。