京都では昨年、伝統文化を鑑賞した外国人たちの感動度が80パーセントを超えたといいます。
伝統文化の中でも、あどけなくて可愛らしい“おぼこい”舞妓さんは、誰もが一度は見たいと思わずにはいられないものでしょう。
そんな舞妓さんたちの方では、だれか一人でも手を抜けば舞妓のイメージが崩れてしまうと意識しながら生活しています。「すっぴん芸妓―京都・祗園のうっかり日記」を執筆した山口公女さんも、「ファーストフードのお店でぐだぐだとくだらない話をしてみたり。同級生に片思いしてお付き合いとかしてみたり。そんなことは、すべて諦めた」と言いました。
親元を離れてやってきた10代の少女を一から舞妓として育てるために、屋形は生活を管理するだけではなく、衣装、アクセサリー、小物類などを全て用意し、しめて家一軒分くらいのお金をかけて舞妓をプロデュースするそうです。
晴れて舞妓の世界に入った舞妓を今度は、姉さん舞妓が容赦なく叱り、もしも新人舞妓が慣れない宴席で、電話番号を教えてというお客からの要求に困ることがあれば、すかさず姉さん舞妓は気を回し、「うちらは糸電話しか持ってしまへん。お気持ちがあれば、通じます」といった具合に助け舟も出すそうです。
何人もの期待や助けの上にできあがっている舞妓は、舞妓を卒業して芸妓になったとしても、日本舞踊から長唄、小唄、三味線、太鼓、笛、茶道、さらに華道や俳諧などを習い、芸を磨き続けることをやめません。
そして殺人的に暑いという夏の京都でだって、彼女たちは心の中で「暑い〜!死ぬ〜!」と叫びながらも、「歩く京都伝統工芸品」として総重量10キロというずっしりと重い衣装をまとい、毛穴をしめて汗を流さず、涼しげに歩いてみせるのです。
宗教の戒律を守らなければ罰を受けると考える欧米の文化を「罪の文化」とするならば、悪いことをすれば世間様・お天道様に顔向けできないという日本の文化は「恥の文化」になります。
欧米人は、「恥」の意識からくる日本人の言動を、自分を持っていない、ズル賢いと感じるそうですが、その一方では、恥にならないようにと大義のために自らの人生を投げ打つことができる日本人の高潔さに憧れを抱くのだそうです。
曖昧だ弱気だと言われる昨今の日本人像は、「恥の文化」のネガティブなイメージが強くなっているのかもしれません。
しかし、350年の伝統を引き継ぐ京都の花街の「恥」にならないようにと生きる舞妓さんたちは間違いなく高潔な日本人であり、舞妓さんたちに憧れる私たちもきっと、誇り高い日本人でありたいと心のどこかで願っているのです。