愛や絶望、あるいは笑いについて多くの研究がされている中で、「恐怖というのは意外にも哲学の主題になってこなかった」と、科学哲学を専門とする哲学者の戸田山和久氏は言いました。
もともと人類が生き残ってこれたのは恐怖という感情があったためなのに、獣に襲われることのない現代では、恐怖は喜怒哀楽に比べると非日常的なものですし、人の寿命までも、テロメアという細胞分裂の数をカウントダウンする存在によって説明がつくようになって、恐れを生むような未知の存在自体がどんどん減っていっています。
にもかかわらず、フィクションだとわかっているホラー映画も、毎年同じようなテレビの心霊特番もなくなる様子がないのは、恐怖がある意味中毒性を持っていることによるようです。
人は恐怖を感じると、アドレナリンによって興奮するばかりでなく、脳内に鎮静作用と快感とをもたらすエンドルフィンも増えるのだそうで、歴史上の著名な知識人の中には少なからず恐いものと親しんでいた人がいるといいます。
たとえば、トーマス・エジソンは死者と交信する機器のアイデアを科学誌に発表したことがあると、「オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」(森達也著)に紹介されていました。
将棋の羽生善治氏も、“必要は発明の母”というのならば、“恐れは発明の父”であり、適量の恐れをスパイスのように上手に使いこなすことが快適に楽しく暮らす方法だと述べています。
フェイスブックで14万件以上のいいね数を獲得しているホラー写真家のジョシュア・ホフィン氏は、幼いわが子を被写体にして、子どもが降りてくる階段の隙間からモンスターが覗いているとか、テレビを見ている子どもの背後から手が伸びてくる様子など、幼いころ誰もが感じていた恐怖絵図を発表し続けています。
そしてホフィン氏は、本能としての恐怖をそなえた子どもの世界は、危うくて安全だという考えは錯覚だとその恐怖が教えてくれると語りました。
私たちは不安や恐れを取り除く方法を重宝しがちですが、サイコパスは恐れを感じにくいといいますし、恐れを忘れることほど恐ろしいことはないのかもしれません。