16世紀末に日本を訪れたカトリック宣教師が書いた『日本巡察記』の中に、日本人の良くない特徴の一つとして、「口で言っていることと本心とが一致せず、発言が曖昧である」という記述があったようです。
キリスト教などの一神教では自分たちが信じる神以外を信じることは罪だとされているので、その一神教の影響を強く受けている欧米社会から来た人たちは、AかBかをハッキリと決める傾向があり、日本人の二面性や裏表のある性格は彼らにネガティブな印象を与えてしまうのかもしれません。
例えば、日本独特の慣習に「本音と建前」というものがありますが、その背景にあるのは、日本人が個人の意見を進んで述べるよりも、むしろ集団の中での合意づくりを重視していたからだと言われます。
実はこの考え方のルーツはなんと聖徳太子の時代にあるようで、当時の日本は、渡来人など多くの国の人が集まっていたグローバル国家だったので、当時の憲法十七条には「価値観の違う文化を否定せず、多様性を積極的に受け入れなければならない(現代語訳)」という内容が記されていたのです。
その頃の影響を受けているためか、日本には「裏通り、表通り」とか「表地、裏地」といったように物事を2つの面で捉える考え方が定着し、恐らく、その延長線上に「本音と建前」という慣習が一般的になったのでしょう。
本音が自分が何を考えているのかをさらけ出すものである一方、建前は相手を考慮して自分の意見をあえて出さないことで、その場の空気を乱さないようにするなど、この本音と建前という考え方があるからこそ、争いを起こさず他人と共存することが出来るのです。
最近は欧米の影響を受けて、何でもハッキリさせるのが良いという考え方が広まりつつありますが、何もかもイエス・ノーとハッキリ決めなくても、いまは両方の良い所を上手に活かせる時代なのですから、多少、曖昧なくらいがちょうど良いのかもしれません。