多くの途上国では現在でも高等教育は英語かフランス語で教えられていて、例えばモロッコでは中学校以上の授業は基本的にフランス語でしか勉強できません。
実は日本も一昔前まではモロッコと同じような状況で、明治時代に設立された旧帝国大学では、最初の10年間はほとんどの授業が英語、ドイツ語、もしくはフランス語で行われていました。
と言うのも、大学レベルの高度な学問を学んだり論理的な事柄を自国語で考えたりするためにはそれを支える言葉が必要なのですが、当時の日本語には大学教育を行えるほど語彙がなかったため、高度な知識を身に付けるためには外国語に頼らざるを得なかったのです。
しかし、後に学者たちによって「権利」や「経済」といった大学教育のための新しい漢字言葉が整備されたことで、日本人は日本語で高度な学問を勉強できるようになり、それによって日本は先進国の仲間入りを果たすことができたと言われています。
それにも関わらず、先人たちの努力もむなしく、現代社会ではスマホの普及により漢字がほとんど使われなくなってしまいました。
漢字を日常生活から失うことの影響は決して小さくはないようです。お隣の韓国は日本と同じようにもともと漢字とハングルの両方で文章を書いていましたが、1968年に漢字が廃止になりハングルだけで文字を書くようになったことで、研究論文や新聞などの質が大幅に落ちてしまったと言われています。
ハングルは日本語のひらがなと同じようなものだと考えればイメージしやすいでしょう。例えば「せんき」という言葉を使うときに、漢字があれば「戦記、戦機、戦旗・・・」といった様々な意味合いを表現できますが、ひらがなだけではそうはいきません。
もし漢字を失ってしまえば文字で何かを表現するときに、誰でも理解できるようにシンプルな書き方をする必要がありますが、実際に現在の韓国人が書く文章は非常に簡素、単純、そして直接的という傾向があり、言葉の奥行きが浅いのだそうです。
しかし人は言葉で思考するため、言葉が貧相だと浅いレベルでしか物事を捉えることができなくなり、高度な思考ができなくなることは容易に想像できます。
恐らく漢字を知らないことで起きる影響は、高度な思考をすることができなくなるだけでなく、相手の心情を汲み取ったりその場の状況を読み取ったりする能力にも影響してくるのではないでしょうか。
最近は幼い子供に英語を叩き込んだり、次のマークザッカーバーグを育成すると言ってプログラミング教育が流行っていますが、その根底に漢字教育がなければ、そんなものは何の役にも立たないような気がしてなりません。