アラーキーこと写真家の荒木経惟氏たちが熊本で、「子どもと一緒にアラーキーにヌードを撮られたい母子求ム!」と一般からモデルを募ったところ、アラーキーが予想した数の10倍となる、50組の応募が寄せられたそうです。
「朝起きたら、まずフェイスブックをチェックする」というフェイスブックユーザーは10人中6人に上るといいますし、スマートフォンで難なく写真が撮れる私たちにとって、写真は毎日見るもの・見せるものになり、少し前まで特別だった「カメラ」の世界が急速に、個人の日常生活の中に入り込んでいます。
↑自分の写真を撮るのは日課。撮影という行為に壁はない
写真が日々のコミュニケーションツールになってから、写真を補正・加工できるスマホアプリは必須アイテムとなっていますし、手を伸ばさなくても自分を撮れる手のひらサイズのドローンも登場するそうで、スマホ写真のツールの進化はとどまることを知りません。
けれど、「会話の死」と題する写真を発表したストリート写真家、ベイビーケイクス・ロメロ氏は、人々はスマホにべったりで会話にも入ろうとせず、「スマホは全ての人を本気でつまらなくしてしまった」と言いました。
↑スマホは人を本気でつまらなくする
スマホを掲げ、友達と顔をくっつけて二カッと笑顔をつくり、シャッターを切った直後に素の表情に切り替わるというシーンをよく見かけます。
目の前にある素の表情のほうがどう見ても本物のその人なのに、写真におさまった自分を見ることに一生懸命になっている現代の人は、現実の面白さに気づく機会を減らしているのかもしれません。
「最初の最初っから顔にとりつかれてた」と言い、人の顔の写真を撮り続けてきたアラーキーは、よく電車に乗って、乗車してきた人の3駅目の表情を撮っていたといいます。
というのも、乗客がちょっと周りの人を気にして1駅目を過ぎ、中吊り広告を読みながら2駅目を超えて、もう何もすることがなくなった3駅目のあたりになると自分の世界に入り込んだ、すごくいい顔になるからなのだそうです。
↑乗車して3駅目で人は、無の境地のすごくいい顔になる
電車で顔ばかり撮っていればちょっとおかしい人にも見られるでしょうが、カメラマンたちは面白いと思う世界に我を忘れて溺れるもので、そういうカメラマンが心を動かされたものを撮った写真は、周りの人の心を動かします。
The New York Timesに連載を持っていたニューヨークのストリート写真家、ビル・カニングハム氏は、40年間毎日、朝晩問わず自転車に乗って街を走り回り、街行く人のファッションを撮り続けました。
撮られた人と会話をしている最中でも、ほかに魅力的なものを見つければそちらを追いかけていく、その様子はまるで戦場カメラマンのようだったそうです。
↑ニューヨークというファッションの戦場を走り回る
ドキュメンタリー映画「Bill Cunningham New York」では、カニングハム氏が作業員用の青いジャケットや、黒いゴミ袋でつくった雨合羽に身を包む様子が見られます。
そして、「私は透明人間なんだ。そうすればより多くの写真が撮れる」と、彼自身が周囲に意識されないことを望んでいる一方で、アメリカ版Vogue誌の編集長アナ・ウィンター氏は「ビルのために着飾る」と語っているのです。
カニングハム氏はついに2008年、フランスで芸術文化勲章を受賞し、授賞式の壇上で、「ただで服を着られるセレブを撮っているのでは意味がない」と語り、自分が見ているのは、服のラインや色、形などの全ての部分、その美しさは追いかける人だけが見つけるのだと涙ぐみました。
↑「私は透明人間なんだ。そうすればより多くの写真が撮れる」ビル・カニングハム
世界最大の写真共有サイト「フリッカー」を立ち上げたスチュアート・バターフィールド氏が、「フリッカーは『世界の眼』になる」と述べたのは2006年のことです。
それから10年経ち、難破した難民船に乗っていた子供が浜辺に打ち上げられている様子も、絶対に一生行くことができない深海の世界も、はたまた隣の席の同僚の週末まで、簡単に垣間見れるほど写真だらけで、世の中がどんどん明かされています。
けれど、人の目を意識できないほど溺れて涙ぐんでしまう、そういう面白さが語られている写真はどれほどあるでしょうか。
↑撮った写真の分だけ、いい写真に近づいているのだろうか
旅に出たり、オープンしたてのレストランに行ったりと新しい経験を増やすことだけが人生を面白くするのではなくて、何かを追い続ける眼にしか見えてこない面白さが存在するのはきっと間違いありません。
アラスカを撮り続けた星野道夫は、何万、何十万というカリブーの大移動をついに見つけたとき、ブリザードの中でテントが飛ばされそうなのも寒さも何も忘れ、レンズにしがみつくようにしてシャッターを切ったそうです。
そんなアラスカの自然を、「切符を買って壮大な映画を見に来ている」という感覚で撮っていたそうですが、アラスカに通い続け、アラスカの人たちと知り合い、ついにアラスカに移住することを決めたころ星野氏は、アラスカと自分の命が触れ合っていると感じるようになったと述べました。
↑カメラのレンズを通じて撮るものと自分がどんどん近くなる
星野氏はカメラマンになるつもりで写真を撮り始めたわけではないと言っていましたが、写真を撮るたびに面白いものとの距離が縮んでいくために、写真がやめられなくなってしまったと言います。
「江戸前を食ってみたい」という動機でお台場の海にもぐって以降、35年にわたって東京湾に潜っている水中カメラマンの中村征夫は、「困ったもんです。行けば行くほどおもしろいのが撮れるんです」と言いました。
工場排水や埋め立てなどによって痛めつけられてきた江戸前の生き物たちは、弱いものが淘汰されていく中で生き残った、飛び切りたくましい生き物たちばかりで、中村氏は、ヘドロまにれになりながらこぼれんばかりに卵を抱えた母カニたちにハサミを突きつけられたこともあるといいます。
↑江戸前が食べたかったはずなのに、行けば行くほど面白い世界に出会ってしまった
弱肉強食の世界を追いかけてきた中村氏は、強いものが残るからこそ、その種が存続できるのであり、弱った生き物を助けようとするような「人間の同情というのは、自然界には無用なものだと、僕はいつも思うんです」と語りました。
撮った写真がそういった自分の気持ちや人生観を見せることにもなるため、自分が人の写真を見る側に立ったときも中村氏は次のように考えるのだそうです。
「ある写真を見たとき、この人はどんな人生を送ってきたんだろうかみたいなことを考えることがあります。どうしてこんな写真が撮れるんだろうみたいなね。」
↑カメラマンは自分の内面を見せているようなもの
30年にわたって絵画の巨匠に成りすまし、「ピカソが生きていたら、彼を雇っていただろう」とまで評された贋作画家のギィ・リブ氏は、著作「ピカソになりきった男」の中で、ピカソの贋作に取り組むときは、「ピカソはなぜ、どのようにこの作品を作ったのだろうか?どんな精神状態にいたのだろう?」とその内面について考え、まるで捜査官のように片っ端からピカソに関する資料に目を通したと述べていました。
そして、ピカソと想像上で言葉を交わし、ピカソと一緒にいるような気持ちで贋作を作っていたのだそうです。
眼のレンズに映るものにはその人の内面が映ると知っている画家やカメラマンたちは、心惹かれる絵や写真を誕生させたその作者の内面を探すのでしょう。
↑つくった人の内面に近づかなくては、その作品を模倣することなどできない
アラスカで星野氏が、息もしていないのではないかというくらい集中して写真を撮っているのを後ろから見ていたという妻の直子さんは、二人でほぼ同じ光景を見ていたはずなのに、星野氏のカメラのフレームで切り取られた光景が自分の見ていたものとは違っていて、「あ、こういうところを見てるのか」と思ったのだそうです。
目の前の世界がどう眼に映るのかは見る人しだいですが、「みんな案外、目の前にある物事を見ていないんだよ。“目”は開いてるのに“眼”を使ってない」と、アラーキーは指摘していました。そんなアラーキーが撮る写真について、北野武氏は次のように表現しています。
「カメラが撮るんじゃなくて、カメラを持ったアラキさんがカメラっていう感じなんだよね。アラキさんが混ざったカメラっていうような。」
SNSに日々の写真をアップすることが普通になって、今年、生まれるデジタル画像の数は2010年と比べて4倍になると予測されていますが、その大量の写真の中に、人の目を気にせず純粋に自分の眼を使って撮られたものは、きっと多くありません。
↑カメラを持ったカメラマンごと、カメラとなる
プロのカメラマンには、写真“で”生活をする人と、写真“の”生活をする人がいて、写真“の”生活をする人は、写真を撮り、写真でしゃべり、写真で充実する人のことを指すのだそうです。
40年ほど前、浅井慎平や篠山紀信といったカメラマンたちの考えを「映し世の写真家たち」にまとめた佐野寛(かん)氏は、写真“の”生活をするカメラマンにとっての写真は「セックスと似ていると思う」として、その理由を次のように述べていました。
「あるところまでいくと、あとは新しいとか古いとか、進歩とか発展とかと無関係になる。もっと深いところで求め、満たされる。」
↑カメラマンにとって写真は自分の深いところを満たすもの
新宿の街を数十年にわたって撮り続けている森山大道氏は以前、次のように現代の暮らしについてコメントしていました。
「ひとりで暁方までボーッと起きている時、見まわすとまわりはテレビで見た商品ばかり。これを見ながら死んでいくのかな、と昨夜も思ったんです。」
最近では、テーブルにもう一つのグラスがギリギリに見切った写真を撮ってSNSにアップするなど、自分の現状をよく見せるテクニックはいろいろあるようですが、結局は自分の眼に映る現実だけが人生の充実度を決めるのでしょう。
↑現実を修正した写真は、現実そのものを修正してくれない
「崩れ落ちる兵士」の写真で一躍有名となったフォト・ジャーナリスト、ロバート・キャパとともに「ロバート・キャパ」としてユニット活動していたこともあり、もう一人のロバート・キャパと言われる女性戦場カメラマンのゲルダ・タローは、時にハイヒールを履いて戦場に立ち、兵士たちをなごませたそうです。
そんなタローは戦場で多くの死体を撮影しましたが、死体の山を撮るのではなく、一人ひとりを写したといいます。
戦場ほどではなくてもいいことばかり起こらない毎日ですが、目の前の現実が意味を持つ見る眼で切り取ったシーンは、どんな現実であっても、その人の心のとおりに、意味のある現実になるのではないでしょうか。
怪しいといわれようがアブナイといわれようが、自分の眼で映したシーンを集めていくうちに、誰かと比べられるような成功とか進歩とかとは無関係なまでに、自分の深いところが満たされていくのです。